2018年11月22日

F科後輩達へ(7頁目) M38泉谷忠成

「イタリアデザイナーと直接提携 専門店造り 」

会社のトップから、イタリアのデザイナーと直接提携するとの話、小売り屋が海外のデザイナーと直接提携するのは当社が初めての試みで、日本経済新聞にも少しですが1頁目に記事が載せられました。
会社としても後に引けない、当然現場は逃げまくり、私の方に話が回ってきました。

ひそかに夢を持っていただけに、私はその話を受けることにしました。上司からは「突っ込むのは片足だけにしとけよ、どうせ失敗するのだから」と、早速提携調印の話、京都嵐山の元川崎男爵亭で社長以下勢ぞろい、先方はデザイナーとご主人のEU州会議員とともに来日、提携調印と同時に嵐山を望む大きな庭園を二羽の純白のコウノトリが庭園を横切って行きました、そのデザイナーは「オー」と歓声をあげられたのが印象的でした。
企画室長として、早速作業開始です。まず専門店を立ち上げてきて丁度、定年退職した所のベテランに協力依頼。デザイナー兼パターンナーを募集、有名専門店向け大手アパレルメーカーのチーフデザイナー採用を中心に数名で構成しました。店舗設計、出店交渉、更に一番重要な販売員の引き抜き、これが大変な作業でした。余談ですが、販売員(ファッションアドバイザー)の面接では、
@背筋がしゃんと伸びている人(前向きな人)
A少し落とした話の投げかけに乗りすぎるのはだめ、さらりとかわせられる人(お客様とうまく付き合える人)。などをポイントにしました。
※企業によってそれぞれ捉え方は違います。

販売トレーナーも日本を代表する専門店の販売トレーナーを週二回で来てもらうことにしました。
そこでは接客の在り方をしっかり学びました。後はデザイナーのイメージを崩さず日本人向けにどの様にアレンジしていくかの作業になりました。

出店も進み店舗運営・売上もほぼ順調に進められたと思っています。しかし、いくら会社の政策とは言え、初期投資資金の回収には苦戦しました。

若手に後を譲り部署移動した後、全国のお店を支援していく仕事に。
そこでは、仕事を通して全国津々浦々巡回、友人を全国に持つことが出来ました。

私の経験を一方的にお話ししましたが、ファッション工学科の皆さん、何か一つでも参考にしていただくか、笑い話のネタにでもして頂ければ幸いに思っています。


フィリピン
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韓国
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2018年11月20日

F科後輩達へ(6頁目) M38泉谷忠成

「ブラックフォーマルウェアを担当」


当時は黒の葬式服のみ、全く魅力なし。まず最初に手掛けたことは、東レと組んでファッショングレードではなくシチュエーション別(どこで着用するかの場別)のコンセプト作り、ファッションブラックの位置づけを明確にしました。又、葬儀・パーティなどそれぞれのマニュアルも作成しました。

売り場では@素材の黒の出方が微妙に違う(赤系・茶系)などポリエステルの原料は石油の為、圧力釜でも均一の色が染まらない。
Aポリエステル素材の風合いが気に入らない
Bトリアセテートは純黒の表現は出来るがダラっと伸びる
Cパーティ服などあってもいいのではないか、などなど。
まず私は東レにポリエステルで均一の黒が出せるように要請しましたが、それは不可能。帝人に要請、そこでも不可能。

私は中国での経験から絹の特徴である中空異形断面糸ではと、帝人に提案、「出来ました」とうれしい報告が入りました。均一な純黒と同時にソフトな風合いも実現できました。
帝人から共同開発としての申し入れもありましたが、会社に報告すると「なんやそれ、それがどうしてん」で終わり、当時はそんなもの。
更に私が懇意にしていた、東京スタイルにファッションブラックを提案しましたが考え方の違いで話は進まなかったので、岐阜のアパレルメーカーのデザイナー(東京の好感度のアパレルメーカーに勤務されていたが結婚を前提に岐阜で再就職されていた)と東京での市場調査に、黒でのサンプルアップそして製品化、その商品が大ヒット。一気にファッションブラックへの人気が高まりました。
おしゃれな黒のフォーマルが続々誕生。
岐阜のアパレルメーカーはフォーマルで大きく飛躍。一気に当社のフォーマル部門の売り上げも100億突破、繊維小売新聞でも名前入りで全紙に大きく紹介して頂きました。
しかし私には果たしていない夢がありました。それはシルクロードの淵源地イタリアローマと商いをする事でした。


次号に続く



フィリピン
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2018年11月15日

F科後輩達へ(5頁目) M38泉谷忠成

「中国での商品化計画」


私には夢がありました。私の住む住之江はイタリアローマと結ぶシルクロードの淵源地、ここ住之江に上陸して、細江川を遡り、八尾を経由して大和川に入り、奈良県の桜井に上陸していました。ここ住之江から中国を経由してイタリアローマに、と私には遥かな夢がありました。

日中友好条約が結ばれ、暫らくして中国から絹を輸入している商社の方から、情報が飛び込みました。
中国の南京市でコールテンのいい素材が開発された(風合いもかなりソフトに)、との事。
早速取り寄せ、社内での品質検査、何とかスレスレで品質検査を通すことが出来ました。そこで会社に出張計画を提出、当然猛反対「何考えてるんや」とまるで取り合ってもらえず、しかし韓国・インドで成功しているだけに会社も反対しきれず、強引でしたが出張計画を通しました。しかしそれからが大変、南京市はTELもなければFAXもない、商社の方に上海から現地まで車で走って頂きました。

偶然にも日本で初めての、伊丹から上海の第一便が就航、早速飛び乗って中国での第一回商談会に参加することが出来ました。日の丸の旗を振っての出迎えでした。当然婦人服では、日本で世界で初めての事です。
歓迎レセプションでは、「私たちは最初を大事にします」と話されました。

製品は綿コールテンのジャンバードレス3型、¥2900で販売、一週間で即完売、日本だけにとどまらず世界が中国に一斉に注目、二年後にはピエールカルダン・ダイエーが現地事務所を作られるまでになりました。現地での通訳の女性(23才)は初めての通訳で「さくらさくら」の歌を歌うので聞いてほしい、と純粋な素敵な方でした。
日本語はどうして覚えられたのですか、と尋ねると年配の日本人の方に教えてもらって6カ月で覚えたとの事。素晴らしいですね、給料はと聞くと日本円で月約¥2500と話されていました。
又、ホテルの部屋には鍵がなく、若いボーイが将棋盤を持ってきて一緒にしないかと、想像もつきませんね。本当に純真な方ばかりの印象でした。
商社の方が、いい所へ連れて行く、と言って五百羅漢のお寺へ連れて行って下さいました。
きれいに清掃され、何の事か分からなかったのですが、「中日友好条約」が結ばれた、その日に国民の宗教活動が認められた記念の日だったそうです。
国民は大変喜び、荒れ放題になっていたお寺を1〜2週間で今のようにきれいに清掃、今の姿に復元されたそうです。商社の方は、「この姿を後世の人に必ず伝えて行く義務と責任が貴方にはあるのですよ」と、心の問題は消すことのできない大切な事だと教えられました。

その後、タイ更紗の民族衣装でブラウススーツ。フィリッピンでは汕頭ブラウス、台湾ではジャケットで、まずまずの成功。
香港では条件が合わず現地まで行ったがボツ。更に南米のグアテマラに民族衣装の商品化計画で出張申請、そこでやりすぎたのか、上司に「俺も行ってないのに」、と妬み?で部署移動になりました。
次はフォーマルウェアを担当することになりました。


次号に続く


台湾のダウン工場
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韓国です。全て当時の工場で、今は大きく変わっているでしょうね!
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posted by はくすい at 16:03| Comment(0) | 後輩たちへ