2021年03月25日

気まま旅 『 わが町・愛する大阪その二 』M38泉谷忠成

『 わが町・愛する大阪 その二 』

大阪住吉の地に汽車が走っていたのをご存知でしょうか?

明治33年、大阪馬車鉄道が天王寺西門前〜東天下茶屋間を開業したのが始まりだそうです。

明治35年には住吉神社前まで延伸されています。

明治40年には大阪電気軌道と名称変更、馬車から汽車に、堺まで延伸されています。
更に現在の阪堺電気軌道(株)に! 

私の祖祖父は明治31年までその地で料理旅館「禊館」を営んでいましたが使用人の付け火で大火ほぼ全焼。
その後、祖父は残った建物の一部を住吉高燈籠脇に敷地内の中での移動、料理旅館「仁鶴」として移転しています。
私の親父は大正4年そこで長男として誕生しています。
当時の「仁鶴」は3階建て、親父の話では日本で初めての映画の現地ロケとして市川ももの助・歌川八重子などが来られての撮影だったそうですが、実際に初めてであったかどうか? 確認は取れていません。
子供の頃の親父は自分の名前を少し大きくなるまで「ぼんぼん」と思っていたそうです。

大阪天下茶屋出身の笑福亭仁鶴の名前もここからとったのではないか、と勝手に想像しています。(ごめんなさい)
「仁鶴」は超有名な料理旅館だったそうです。
「仁鶴」の名物料理(親父に聞いた話)
堺大浜で荷揚げされた鯖(さば)を荷車で飛ばし、客を待たせておき陸揚げ30分以内で料理、お客様に出すのが最高のおもてなしだったそうです。
鯛は超新鮮なものを瞬時に料理、お客の前で皿の上の鯛(たい)の目に酢を一滴落とし、鯛が飛び跳ね又元の状態に戻るのが自慢のワザだったそうです、これは誰もまねの出来ない超技だったそうです。

<付則> 私の祖父は戦後の昭和21年(終戦昭和20年8月15日)進駐軍のジープにはねられ即死、私の2才の頃の事、我が家の人生も大きく変わりました。
親父も家を飛び出し、莫大な財産(今の住吉公園から高燈籠あたりまで)もバラバラになってしまっていす。
私の中学生の頃一本の電話があり、交通事故の保証金として10万円ポッキリ送られてきました、10数年たっての話です(戦後当時の金額での保障だったようで、お金の価値も大きく変わっていました)。
悔しいが事実であることを再確認しました。


汽車が走っています
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M35宮坂正春氏遺作 青春小説『虹のかなたへ』連載第2章 その二 悲しみと苦しみ(100)

その二 悲しみと苦しみ(100)
 
暑中稽古の初日。五保商工高校の体育館には学生たちが溢れていた。夏の日差しは強烈であり、中はまるで蒸し風呂状態であった。窓や扉は開放されているが、風が少々通る程度では全く用をなさない。
 すぐに着替えた。稽古着なら大汗をかいても平気である。今日は各校から可成りの女子が参加していた。選手として出場した真実子の影響を受けたのだろうか。だが、選手として試合に出ているのは、まだ真実子一人だけのようだった。海山高校も池上恵の他に、一年生の潮美穂や楓(かえで)秋子が参加していた。あれほどに嫌がっていた苅川もちゃんと来てるのだった。やはり剣道が好きなのであろう。
 二郎は何度も会場を見た。体育館のまわりやアリーナの中まで、くまなく見たのである。出島商業の部員たちが参加しているのに、その回りに奈々子の姿はなかった。いつもの通り、遠くから自分に対して微笑んでくれるだろう、と思っていたのに、全くの拍子抜けであった。
『いったい、どうしたんやろう。ナニかあったのだろうか・・・』快活な笑顔が脳裏に浮かんだ。すると胸がドキドキと鳴った。それはいつものことであった。だが、いったい、奈々子に何があったのだろう。
 太鼓がドンドンと鳴り、稽古が始まった。部員たちはそれぞれに望む先生方に掛っていった。二郎も何人かの先生に掛って行った。そして、出島商業の古山先生に稽古をつけて頂けた。五月の練習試合の時以来、久し振りであった。あの時は先生に対して手も足も出なかったが、今日はかなり善戦出来たように思えた。それは、古山先生が手加減したのかも知れないのだが。
 稽古が終ると、大半の生徒たちは帰って行った。
「この後(あと)、強化練習があるから、お前らは残っておれ。もうちょっと練習するんやぞ! 」
剣持先生の命令で、仕方なく残っていた。
「まだ練習をするのんか・・・。オレはもうええで。これ以上やったら死んでしまうで。ホンマに、もうええで」
またもや苅川が、顔をしかめて愚痴を言った。不田と井仲が
『フンッ! アホかっ! 』と小馬鹿にしたように鼻先で笑った。
 強化練習開始の太鼓がドンドンと鳴った。先生たちがゾロリと上(かみ)に並び出した。その中には勿論、山崎田先生の姿もあった。
『強化練習とはどんなものだろう』と思っていたのだが、普通の、先程の地稽古と変らないようだ。すると
「オーイッ! 全国大会に行く者は上(かみ)に立てっ! 早くしろ! 」
山崎田先生の号令で、バラバラッと十人ほどの選手が走り、上(かみ)に立った。
「あの連中が全国大会に出るんやてな。どんな腕前か、試してやろうや」
面の中から真実子に言った。
「そうやねえ、アタシもやってみよう。こんなこと、初めてやわ」
真実子は嬉しそうに言った。面の中で顔が笑っている。
「ホンマや。県の代表やからな。オレら二年生と、どれぐらい違うかやってみたろ。アイツらなんか、オレがいてもうたるで」
不田の言葉が力強く、実にたのもしい。

 
  

つづく
 
3/20(土)理事会を久しぶりに開催いたしました。ソーシャルディスタンスでなのできょうしで開催されました。

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posted by はくすい at 15:03| Comment(0) | 虹のかなた

2021年03月18日

気まま旅 『 わが町・愛する大阪その一 』M38泉谷忠成

『 わが町・愛する大阪 その一』

最初に、わが町大阪を昔の人はどの様に見ていたのか歌で紹介したいと思います。

祝い歌
「高砂や」―高砂や この浦舟に 帆を上げて この浦舟に帆を上げて 月もろともに 出潮(いでしお)の 波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて はやすみのえに 着きにけり はやすみのえに 着きにけり ・・・・・・

この祝い歌、結婚式などではよく歌われています。
高砂をはじめ大阪住吉は、謡曲の中にしばしばとりあげられています。
「白楽天」「岩船」「雨月」「梅枝」「住吉詣」、を始め多くの曲に、住吉・住之江が舞台となりました。
※「住吉」昔は「すみのえ」と詠みました。

◎更に新古今和歌集「住吉の松はまつともおもほえて君か千年のかけそ恋しき」
◎古今和歌集「住吉のはまの海松もわすれぬば かりにも人に又とはれぬる」
◎伊勢物語「雁鳴きて菊の花咲く秋はあれどはるのうみべに住吉の濱」などなど

親父の子供の頃はこの住之江の浜も一面にあやめが咲き誇り、住之江の浜から現在の大和川辺りまで咲き誇って、日本中から観光客が訪れていたそうです(昭和初期)

更に日本で最初のアカシヤの並木(昭和15年ごろまで)、現在その面影もなく今では札幌のアカシヤ並木が有名になっています。

私の子供の頃はあちらこちらに沼地、その沼地には蛇蛇蛇、石を投げて遊ぶのが楽しみでした。

その後埋め立ても進み、大阪湾として海外との海上貿易の拠点になって行きました。




私の生まれは昭和19年、誕生の数年前までの話です
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