2018年11月15日

M35宮坂正春氏 執筆の青春小説『虹のかなたへ』連載開始!その一 異郷の空へ(78)

その一 異郷の空へ(78)
 

放課後の事。海山道場の前に、紺色のダットサンの乗用車が駐っていた。手入れが行き届いているのか、ピカピカに光っている。こんな所へ誰が止めたのか、とみんなは気にしていたが、ヘタに触って傷でも付けたら大変なので、ソッとしておいた。
 練習を始めようとしていた時、安田先生が道場の下に来た。
「オーイッ! ちょっと手伝ってくれ」
部員たちは大急ぎで道場を出た。先生は、そのダットサンの後部のドアを開けようとしていた。
「手分けして、これを道場へ運んでくれ」
後部の座席には、古い稽古着と袴が乗せてあった。そして後部のフードを開けるとトランクの中に、古い剣道の防具が無造作に詰まっていた。
 先生の言によると、南野工業は昔から剣道が体育の正課となっていたのだが、今年の春からそれが廃止になった。それに、剣道部の卒業生や、途中で辞めたりした者の防具が数多く残っていた。その余った物の中から、使えそうな防具を貰ってきたのだそうだ。
 先生はそれを伝えると、ダットサンに乗り込んで颯爽と走り去った。部員たちは歓声を挙げてそれらを道場へ運び込んだ。床に置いてみると、防具が十組も揃っていた。その他に、稽古着が十二枚、袴が十着あった。
 早速、品定めに掛かった。防具は長く使用されたようで、所々にスリ傷やホコロビがあった。その上、ひどく汚れているのだ。稽古着や袴には、塩の結晶がこびり付いている。その、いやな匂いが鼻を突いた。洗うのが一番の仕事だが、それよりも自分たちの寸法を合わせる方が、先決問題であった。
「オッ、これはワイにぴったりや。これがええわ」
「コイツはオレの手に合うてるで。オレの方に回してえな」
「この面、オレにはちょっと小さいから、お前の方がええぞ」
「ちょっとォ。これはアタシが使うんよら、邪魔せんといてよ! 」
ワイワイ、ガヤガヤとやっていると、小一時間が過ぎた。一人一人の前には戦利品(?)が一組づつ置かれてあった。二郎と真実子の分までも、ちゃっかりとあるのだ。七人の部員分と、残り三人分で全部であった。これで全員に防具が行き渡ったのである。
 一度静かになったが再び賑やかになった。それは、各々が洗濯に掛かったのだ。防具を初めとして、稽古着や袴を先を争うようにして洗った。タワシで擦る者、流水で踏み洗いをする者と様々である。本当に嬉しかったのだ。
 防具類は道場の端に並べた。用務員さんからロープを借りて来て、軒下に二本張り、稽古着や袴を掛けた。明日の午後には乾くだろう。
「アーア、疲れた。練習するよりしんどいわ。けど、嬉しいなあ。自分の防具が手に入るやなんて、ホンマに夢みたいよら」
「そうやねえ。アタシなんか、防具を持つのは十年も早いと思うわ」
「そんなことあれへんで。チャンと練習して、強うなるんやで! 」
お陰で全員がビショ濡れになった。けれど、不平を言う者は誰一人として居なかった。みんなニコニコと満足気であった。
「オイ、不田。お前はこの間、山ノ上君とやった時、防具を着けたことがあったやないか。あの時、勝負はどうやったんや? 」
藪から棒に、井仲が不田をからかった。
「なんやと! アホッ! やかましいわい! あの時はあの時やないかい。あれは昔の古すぎる防具やったから、ちょっと動かれへんかっただけやぞ。この防具やったら、負けへんでえ・・・。なあお前ら、そう思うやろ! 」
右手で握り拳を作り、片目で言った不田を見て、大笑になった。不田が二郎に勝てる筈がないのを、百も承知しているのであった。
「オイ。さっきのダットサンな、あれ、誰のんやろ。知ってるか? 」
「イヤ、ワイは知らんよら」
「学校の先生なんか、自家用車みたいな贅沢品、持てる訳あれへんで」
「そやろか。よう買わんかなあ・・・」
帰り支度の途中、一つの疑問が湧いた。それは素朴な疑問であった。そして、あの乗用車は安田先生の持ち物ではない、との意見に落ち着いた。


  

つづく


おもちゃみたいなお札です
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posted by はくすい at 16:18| Comment(0) | 虹のかなた

F科後輩達へ(5頁目) M38泉谷忠成

「中国での商品化計画」


私には夢がありました。私の住む住之江はイタリアローマと結ぶシルクロードの淵源地、ここ住之江に上陸して、細江川を遡り、八尾を経由して大和川に入り、奈良県の桜井に上陸していました。ここ住之江から中国を経由してイタリアローマに、と私には遥かな夢がありました。

日中友好条約が結ばれ、暫らくして中国から絹を輸入している商社の方から、情報が飛び込みました。
中国の南京市でコールテンのいい素材が開発された(風合いもかなりソフトに)、との事。
早速取り寄せ、社内での品質検査、何とかスレスレで品質検査を通すことが出来ました。そこで会社に出張計画を提出、当然猛反対「何考えてるんや」とまるで取り合ってもらえず、しかし韓国・インドで成功しているだけに会社も反対しきれず、強引でしたが出張計画を通しました。しかしそれからが大変、南京市はTELもなければFAXもない、商社の方に上海から現地まで車で走って頂きました。

偶然にも日本で初めての、伊丹から上海の第一便が就航、早速飛び乗って中国での第一回商談会に参加することが出来ました。日の丸の旗を振っての出迎えでした。当然婦人服では、日本で世界で初めての事です。
歓迎レセプションでは、「私たちは最初を大事にします」と話されました。

製品は綿コールテンのジャンバードレス3型、¥2900で販売、一週間で即完売、日本だけにとどまらず世界が中国に一斉に注目、二年後にはピエールカルダン・ダイエーが現地事務所を作られるまでになりました。現地での通訳の女性(23才)は初めての通訳で「さくらさくら」の歌を歌うので聞いてほしい、と純粋な素敵な方でした。
日本語はどうして覚えられたのですか、と尋ねると年配の日本人の方に教えてもらって6カ月で覚えたとの事。素晴らしいですね、給料はと聞くと日本円で月約¥2500と話されていました。
又、ホテルの部屋には鍵がなく、若いボーイが将棋盤を持ってきて一緒にしないかと、想像もつきませんね。本当に純真な方ばかりの印象でした。
商社の方が、いい所へ連れて行く、と言って五百羅漢のお寺へ連れて行って下さいました。
きれいに清掃され、何の事か分からなかったのですが、「中日友好条約」が結ばれた、その日に国民の宗教活動が認められた記念の日だったそうです。
国民は大変喜び、荒れ放題になっていたお寺を1〜2週間で今のようにきれいに清掃、今の姿に復元されたそうです。商社の方は、「この姿を後世の人に必ず伝えて行く義務と責任が貴方にはあるのですよ」と、心の問題は消すことのできない大切な事だと教えられました。

その後、タイ更紗の民族衣装でブラウススーツ。フィリッピンでは汕頭ブラウス、台湾ではジャケットで、まずまずの成功。
香港では条件が合わず現地まで行ったがボツ。更に南米のグアテマラに民族衣装の商品化計画で出張申請、そこでやりすぎたのか、上司に「俺も行ってないのに」、と妬み?で部署移動になりました。
次はフォーマルウェアを担当することになりました。


次号に続く


台湾のダウン工場
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韓国です。全て当時の工場で、今は大きく変わっているでしょうね!
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フィリピン7.jpg
posted by はくすい at 16:03| Comment(0) | 後輩たちへ